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つのまにか、もう十五夜か〜。今年の仲秋の名月っていつなんでしょう。
9/12。朝うちから駅までの道ばたに、ねこがしんでいた。
そんなに交通量もないのに、どうしたのか。誰かにいじめられたのかな。
ともあれ、ものすごく久しぶりにねこのしんだ体をみた。ちがながれて、からだはつぶれて、動かなかった。ものすごく生々しい、むき出しの生命の残骸を見た気になった。

じ9/12の夕方。職場からの帰り道、いつものようにアメリカ領事館の前を通ると、すみのほうに、はなたばが並べてあるのに気がついた。
前の日からかもしれないけど(前の日は報道陣をさけて遠回りして帰った)。
はなたばをみて私ははじめて、海の向こうで起こった未曾有の暴力を、生々しく実感した。
テレビで何度も流れる刺激的な映像は、確かに私に経験したことのない衝撃をもたらしたし、こころはしめつけられるように痛んだ。けどもはなたばを見つけてはじめて、なにかがはがれるように、見渡せるものがあった。わたしのとなりには、さまざまの生まれて消えるいのちがあるんだ!

の向こうでしんだ人達。うちの近所で、しんだねこ。
いまどき、お葬式以外でひとのしんだ姿を見る機会はまずない。
確かにメディアに載せるには、倫理的にふさわしくない。むやみやたらに、人目にさらすものではない。
そういえばそう遠くない昔には、車のナンバーも、犯人の手錠も平気でテレビに映っていたなあ。映っていたときには何とも思わなかったけど、今モザイクのかけられたそれらの映像を見ると、それまで私が確かに見てきた映像こそがつくりものだったのではないか、という気がしてくる。でもこれも、メディアに載せるにはふさわしくないのでしょうから、しょうがない。いまさら手錠を見せろ、とは、よう言わん。
どれもこれも、メディアを通してでしか、伝えられないんだから、リアリティに対して鈍感になったとしても、しょうがないよね。
それが、メディアの限界。

な、あまねく世界を見渡すことができるけれども、情報はどれものこらず、それぞれの半歩手前までしか届けられない。根っころがって鑑賞する分には充分だけど、自分で半歩足を踏み出し、手を伸ばして拾い上げなければ、ほんとうのことは受け取れない。

はほんというと、たてものは建てるから崩れるんだし、人は知り合うからこじれるんだと思っている。きっと、人間に理性さえなければ、さまざまの悲劇は起こらなかった。
けれども同時に、さまざまのヨロコビや、愛情をも手に入れることが出来た。それらとひきかえにしてもいいから、変化のない平和をのぞむ、とは、おそれ多く言えません。それはもったいないからじゃなく、人間として無責任だろうから。

間は、責任をとらないといけない。豊かな、愛するこころ。楽しい気持ち、他人に優しくしたいと思える気持ち。これらを大事に持っていようと思ったら、人を憎むこころ、自分に害なす人の気持ちも、きちんと受け止めないといけない。
世界は傷ついた。けれども立ち直らなければならない。
きっと地球上の「人間」という存在すべてに責任があるのだ。どんな理由でも----テロでも災害でも----人が寿命以外でしぬのは、「進歩」しかしてこなかった人間のせいだから。

話休題。
9/12。夕方、駅からうちまでの道ばた、しんだねこのからだは片づけられていた。
よる、テレビはNHK以外通常のプログラムを流していた。
生々しいいのちの息づかいを感じたばかりの私は、少々流れる時間の残酷さにセンチメンタルになったりした。が、これも「進歩」してきた人間の、立ち直るためのプロセスなのだと思い直す。
ともあれ、メディアに自分を預けるのはやめた方がいい。自分が知っているものも見えなくなる。電波は海を越えて距離を感じさせないが、それを浴びてばかりいると足下のリアルが見えなくなるから。気を付けないと、自分の誕生日もメディアに教えてもらう日が、きっとくるよ。


◆2001/03/25◆
なんと、ひろしまで「大地震」です。なんてひろしまににあわないんだろう「大地震」。人様にメイワクをかけず、子羊のように平和に暮らしているひろしまの地に、なんの咎があって「大地震」。(他の地震がある土地に何か咎があるという意味ではなく。)誰に罪が無くても、等しく無情に被さってくるのが天災というやつか。
うちの両親はちょうど関西に旅行中で、京都で時間をつぶしてしまったが為に岡山で3時間足止めをくう、と言う程度の被害しかなかったようです。物的被害もおかげさまで特になく。
っていうか私がこのニュースを知ったのは、わりと地震がおこってすぐに、外でなんかの速報を聞いたような気がするんだけど、遊び中だった私はなんとなく聞き流していた。そんで家帰って、夜11時頃のニュースでなんか大々的にやってて、ものすごい気持ち悪かった。自分の地元が、メディアにのっかてるってことに。
これ以上ないくらい自分にとってリアルの塊である「田舎」が、メディアを通すとこんなに他人事で、単なる数あるコンテンツの一つになりさがる。中東のどこだったか、何年か前の「はじめて生中継された戦争」をニュースで見たときも、同じことを思った。メディアにのっからないと、知り得なかったことを、今では知ることが出来る。それは知らずにいた頃よりは公平で、素晴らしいことかもしれないけど、それは単に、等しく公平に熱のない情報を受け取るようになった、それだけのことかもしれない。
今朝の新聞でもこれでもかというくらいの大きな見出しで「広島」。みたくない。
メディアはやさしい。目を背けたくなるような情報も、知らない誰かの冷静な視点で、等しく客観視して、租借して与えてくれる。そうやって守られた結果、人はリアルを失っていく。誰が何のために、何から守る必要があると言うんだろうか。

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